HARIKOさんの発達障害日記

発達障害(ADD+軽度自閉)+ACの女性の生き恥ブログ。ルサンチマン

ポップアイコンの変化の推移~AKIRAからおそ松さんまで~

私は漫画の「AKIRA」が好きなのだが、この作品のキャラに関して長いこと違和感を感じていた。

 

「キャラクターの葛藤する場面がないな…これはわざとなんだろうか?」と思っていた。

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調べてみると 「キャラを役割化してそれに徹してる」、

つまり

内面の葛藤がない代わりに分かりやすさを重視してる「アイコン」だった。

Twitterマンガ語りポータル - 第50回「AKIRA」 の あと語り

 今作のキャラクターは「人間」というよりは「役割、職業」という感じで、
 「不良は不良らしく」「軍人は軍人らしく」「科学者は科学者らしく」
 それぞれのキャラは与えられた「役割、職業」の持っている類型的な特徴によって行動する様に描かれています。

 

  ややもすると「キャラが薄い」という表現になってしまいがちですが、
 今作はその「キャラの薄さ」をよい方向に利用して、
 キャラクターの行動に「強さ」を与えています。

 

  キャラを濃く、深くしていくと、キャラの行動には葛藤が生まれます。
 その葛藤がドラマを作り、作品を盛り上げることもあるのですが、
 今作はキャラを薄く、行動に葛藤の余地を与えないことで
 それぞれのキャラの行動に迷いがなく、それぞれの思惑が力強くからみ合って、
 「振り切った」キャラの行動によって「振り切った」スピーディな展開が生まれ、
 大きな現象を引き起こしていきます。

 

AKIRA 全六巻 作・大友克洋 - 成馬零一が考えていること。

そして『AKIRA』が幸福な作品となれたのは
 下敷きの対象が、まだ荒唐無稽で牧歌的だった頃のマンガだったからだ。
 極端なことをいうなら、手塚治虫等の例外を除けば
 この頃のマンガの主人公は内面のない物語のコマといえる存在でした。

 『AKIRA』の金田やケイはほとんど葛藤をせず
 己の役割のみをまっとうする。
 唯一の例外は大ボスの鉄雄だが、
 これは鉄雄は「待ち」のキャラで
 あらゆるキャラが鉄雄に向かうから動く必要がないのだ。
 いわば鉄雄にはキャラとしての目的がないから
 勝手なことをしていられる。

 
 なるほど。
内面を描かないのはわざとだった模様。
しかもそれが昔だからこそ成立した技法なんですね。
 
ここで話を変えて、最近ヒットしたアニメ「おそ松さん」について触れたい。

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これはヒットした理由が誰もが述べているので簡単に説明するけど、
「兄弟の関係性」6つ子という同列でありながら兄弟関係がある関係。また兄弟同士で好き嫌いや独特の関係を持っている兄弟同士もいる。
「可愛さ」外見のキャッチーさ
「声優のうまさ」ベテラン声優ばかり
「画面の作り方」女性向けを思い切って狙ったパステルカラー、グッズ展開
「前回の内容を引き継いだ展開がたまにある」
サザエさん形式の15分×2の30分ギャグアニメで基本引継ぎなくいきなり現代から宇宙に行ったり、いきなりキャラが死ぬ回などむちゃくちゃな回が多いが、前回起こったことが影響している回もあり新鮮。
が主に挙げられる。
 
私はこれに加えてキャラの可愛い外見とは裏腹に、兄弟同士の関係性は勿論、回が進むごとに内面の成長・変化のギャップがあるから成功したと思ってる
 
ネタバレになるから詳しくは控えるが、とあるキャラは実在する人間かと思うほど性格が生生しく、また主張に矛盾がありそこが人間臭くて好きだった。
好き嫌いが激しく分かれるキャラだったが、
ベタな「見た目と性格が一致しているキャラ」でも
「見た目と性格のギャップがある」わけでもなく、
「完成されてない自我を持ったキャラ」という新しいキャラ像を打ち出された気がしてとても衝撃を受けた。
 
確かに可愛い外見と生生しい性格の時点で「見た目と性格のギャップがある」は満たしているし、六つ子の中でのキャラ付けの時点で「見た目と性格が一致しているキャラ」も満たしていた。
しかし、そこから更に「完成されてない自我を持っていた」要素が入ってきたからこそ、前二つの要素が強化されてより面白さを生み出したと思う。
そんな手塚作品とは対極的な、
「POPの最高峰」赤塚不二夫がその直後に出てきているのは興味深い。
なお、藤子不二雄も十分に「POP」と言えると思う。
どういうことかと言うと、キャラクターに内面が無いのである。
もちろん、のび太ジャイアンに虐められて泣き帰ったりはするが、
そんなものは「人生の矛盾と苦悩」とは呼べないだろう。
そして、楽屋裏でため息をつくバカボンパパなど誰も見たくはない。

 見た目のPOPさとは裏腹に中身が人間臭い、このギャップが面白い。

「POPかどうか」ということをもっと言うと、
「そのキャラクターに自意識を感じるかどうか」であるとも言える。
記号には、アイコンには、自分を省みる自意識など不要だからだ。
一切の反省や自省から解き放たれている、それはカリスマの条件でもある。
カリスマはPOPでなければならない。

今はアイコンも自意識を持って共感を得る時代なんだなーと思った。

 

また「おそ松さん」は二次創作が多い。

一時期ピクシブ(二次創作イラストサイト)では投稿ランキング1位から3位まで独占していた。

これは最近の作品だと異例の出来事だった。

 

以下を思い出す。

初音ミクとレディー・ガガにGoogleが見出した「ポップ・ミュージックの可能性」 - Togetterまとめ

初音ミク以降ポップアイコンは眺めるだけでなく、作って参加する時代になった。

「ポップアイコンに参加してる様子がここまでクリアに示されるシステム」が存在してなかった、柴 那典 @shiba710

ソーシャルメディアの登場によってアイコンとの距離が、物理的にも精神的にも観念的にも明らかに“近く”なりましたし、同時に“あちら(アイコン)側”に行こうとする人も増えてますしね

ピザ(遺伝子組み換えでない) @inumash

初音ミクはキャラの外見と声は提示されてるものの、それ以外の決められたステイタスがない。

そのため「自分好み」の設定や歌を作ることが出来る。それが創作意欲を掻き立てた。

東方も同じであろう。

「おそ松さん」に関しても関係性や話に想像させる余白があり、絵も簡単に描けるのが大きいことから二次創作でも人気が出たと思われる。

 

個人的にこれに関連して最近思うのが腐女子のアイドル化だ。

一般人のアイドル化は元をたどればプリクラ、ネットプロフィール、ネットアイドルの時代からあったと思うが、

オタクでもニコニコやブログやSNSによって萌えを語ると同時に「自分」をアイコン化して語る人が爆発的に増えた。

自分を晒して踊ったり、自分と視聴者とビデオチャット形式で対話する生主放送や、コスプレイヤー以外のオタクでも自撮りの写真を挙げたり、彼氏や旦那の存在を隠さずオープンにする人などは今はSNSで珍しくない。

萌えも語るけどそれはステイタスの一種で、あくまで「それが好きな自分」という存在を知ってもらいたい人間が増えたように感じる。

オタクでもSNSネトゲで簡単に恋人がつくれる時代だし、ネットで簡単にアニメも見ることが出来て「オタク」とアピールするのが一種のステイタスやアイデンティティになっているようにも感じる。

昔より「オタク」と「リア充」との境目がなくなりフラットになり、「オタク」は「リア充」のようにキメた自撮を上げるようになり「リア充」も「オタク」をライトに楽しむようになったのかなと思う。

 

何が言いたいかと言うと、

昔は「アイコン」はアイコンのまま、内面の葛藤などを描かないのが主流だったけど、

今は「アイコン」も自我を持ち、生身の人間と同じように悩んだり、成長したりして共感を得る時代になった。

また「リア充」と「オタク」が昔ほど距離がなく互いに近くなっていると思う。

今までへだたりがあったもの同士がかなり密接になってきていると感じたことを言いたかった。

 

雑文失礼しました。